望診講座52 「気を感じ取る指頭感覚の作り方について」

目安時間5分

「電気回路の練習でビリビリしたような感覚を感じます。逆方向に動かしても同様に感じます。これは正しい感覚でしょうか」

 

という内容ですが、たった数日でなにかを感知するのは、もともと原初感覚に優れた方なのだと思います。

 

ただ、気の感覚はなんらかの実感をともないません。これは間違いないんですね。

 

つまり、ビリビリした感じ、ほかにも空気のふわっとした感じとか、磁石の反発する感じとか、そういった感覚は電気の不純物をともなった感覚です。

 

 

電気回路は気の感覚と似ているとはいっても気そのものではないので、不純物を含みます。

純粋な気の感覚は実感をともなわず、ただ手が動く、逆方向に動かすと違和感を感じる、なんとなくすっきりとしない、そんな程度にしか感じられません。

 

でもその練習で得たビリビリする感じは大切にしてください。その感覚の先に純粋な気の感覚がありますから。

 

追記 過去の記録1

私事ですが、週末に過去の検証データの整理をしまして、するといろいろな資料がでてきたんですが、どういう検証をしていたのかがさっぱり思い出せない資料もあったりしまして、わけのわからない記号が並んでいるだけのものもあるんですね(笑)。

 

これはなにをやっていたんだろう、と。

 

で、ふと有川先生の講習会でのことを思い出してしまいました。

有川先生は50年以上も望診の研究をされた方でしたから、昔の資料となるとなんの目的で記録していたかよく思い出せない資料もあったようで、「なにかをやろうとしていたんだろうねぇ」と笑いながらお話しされていましたが。

 

で、何が言いたいかというと、なにかに打ち込んでいると一つ、二つくらいはオリジナルの練習方法や検証方法くらいは浮かんでくるものかと。

そう言えば他の先生がたも独自の検証方法でいろいろな取り組みをされていたなあと思います。

 

技には個人差で得意不得意があり、またそれを個性に合わせて突き詰めていくと、誰にも真似できない独自の技へと発展していくのだと思います。

みなさんから独自の気へのアプローチ法が出てくるのを楽しみにしております。

 

追記 過去の記録2

私の昔のノートから下記のような覚え書きをみつけたので、公開したいと思います。

 

やっと手の感覚が出来た頃のノートですね。

 

1、左手に磁石を持ち、その極性に意識を集中し、右手指先はただセンサーとして使用すること。

⇒これは指先に力が入りすぎるとわからなくなる、ということを戒めた注意書きだと思います。

 

2、場を意識しないこと。当てようとする意識はかえって緊張を生む。

⇒意識だけでも、実際に筋肉の緊張を生み、指先のセンサーが鈍ることを注意したのだと思います。

 

3、雑念が入り集中できないとき、肉体疲労、精神的疲労があるときは無理に判定をしないこと。

⇒有川先生は体が多少不調でも関係ないと言われましたが、私は体調によって気への感覚が鈍るので、自己の身体操作にはかなり気を使いました。これは人によって違うと思います。

 

4、身体操作を軽んじない事。正中線を意識し、肩、胸の力を抜き、とらわれを無くすこと。意拳の包の形をとり脱力できていることを確認すること。

⇒3と、かぶりますね。それだけ脱力を重視していました。

 

5、反応は極めて微弱であり、はっきりしすぎる反応は間違っていることが多い。注意すること。

⇒いまならあたりまえのことなんですが、当時は大発見でした。気の感覚はただそこにある、という感覚のみで形や明確な感覚をともないません。そのことを言いたかったんでしょうね。

 

6、頭を起こすこと。

⇒姿勢への注意です。集中すると頭がだんだん下がってきて肩に力が入ってくるんですね。そのことへの注意です。

 

7、正規点より下に対照点をとり、同様に反応をみること。

⇒意味不明です(笑)。今読むと意味がわからない記述もけっこうあり、試行錯誤してたんだな~と思います。

 

以上です。なにかの参考になればと公開しましたが、みなさんも努力、工夫してみてください。

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当ブログの「望診」について

東洋医学というと、陰陽五行論をはじめ、気とか自然とか、観念論ばかりが目立ちます。

当会での望診で気を診る技術は再現性を重視、既存の東洋医学の理論とは一線を画すものとなっております。

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古代の望診法とは

古代に存在した「望診法」はダイレクトに気と経絡を見る技術だったのではないかと考えています。

3000年以上前の診察法の言葉に「望んで知る、これ神」という言葉があります。

この言葉は現代では、見ただけで診断ができるのは神様のようなものだ、という意味に解釈されています。

しかし、この言葉がつくられた(約3000年前)当時の「神」という漢字の意味は現代のような神様仏様のような意味ではなく、

神=自然(の気の流れ)という意味であったのです。

つまり、「望んで知る、これ神」の意味は、まず望診で気の流れを見ましょう、という意味であったのだと思います。

ですから、望診は診察手順の第1にくるのです。

四診合算という言葉があります。

望診、聞診、問診、切診の総合評価で証決定をしましょうという意味にとられています。

ですが、古代の望診のあり方を考えると、四診合算ではなくて、四診はその手順どおりに並んでいるだけです。

最初に望診で気の流れを把握しましょう、次に聞きましょう(聞診)、問いましょう(問診)、切(触診)してみましょう、と続いていくのす。

診察の手順としてまず望診ありきで、ここで患者の体のバランスが自然な状態(元の健康な状態)からどれくらい逸脱していて、どこに異常があり、どこが治療のポイントかを把握してしまいましょう、とうのが望診なのです。

ですから、望診というのは、神業だという意味ではなく、通常の診察手段として、最初に来るべきものなのだと考えております。

潜象界について

潜象界とは、現象界の対義語(造語)ですが、現象界は人がその五感で感じ取れる実体の世界のことです。それに対して、現象界とまったく同時に同じ空間に存在しながらも、五感では感じ取ることのできない世界を潜象界と言います。

潜象界はいわゆる「気の世界」であるとも言われています。

その潜象界からの情報は現象界で起こっている事象に先駆けて動き、その潜象界の動きが具現化されて、現象界で実体としての動きに繋がっているとされています。ただ、いまのところすべてが仮説であり、それを数値化、もしくは映像化して確認する方法がありません。

唯一、確認する方法があるとしたら、それは人本来がもっている原初感覚を呼び覚ますこと。

この原初感覚は気を実感として感知することが可能で、その原初感覚をもってすれば、潜象界での気の動きを捉えることができるからです。

その原初感覚を使った望診法が当ブログでいう「古伝の望診」なのです。

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