私の経絡治療に足りなかったもの ~脈が良くなっても治らないのはなぜ!?~

目安時間5分

整体の施術において、同じような症状に同じように施術しても効果が全く違うのはなぜだろうという疑問が常にありました。

 

同じ脾虚で脾を補う、脈も良いほうに変化する、ならば症状も良いほうに変化しなければおかしい。

でもそうならない、かなりの個人差があるのはなぜなんだろうという疑問です。

 

経絡治療の先生方に尋ねると、「個人差だ」「補い方が足りないのだ」「生活習慣を改善しなければ・・・」という回答が返ってきますが、どれも納得いきません。

 

そこで・・・

 

いままでの私の施術に足りなかったものとはなんだろうと考えてみました。

 

いままでは、習った型どおりに施術していました。

けれども治療というものはシステム化、パターン化した時点で死んでいる治療(機械的な)となっているのです。

 

優れた施術家の弟子にはなぜか優秀で熱心なのに、施術の技量は受け継ぐ事ができなかったという事例が多々あります。

 

なぜでしょうか?

 

優秀すぎるがゆえに師の施術方法を分析し、分類しさらに診断治療の方式をシステム化してしまうからではないかと思いました。

 

頭脳優秀な方というのは学術論法による思考が常ですから、どうしても分析、分類してしまうんでしょうね。

 

システム化された治療法。それは初学者にとっては非常に理解しやすいものです。

指標があり、修得の段階がわかるからです。

 

が、しかし・・・

 

その反面、システム化された治療は治療自体を盲目的にしてしまいます。

 

これからの鍼灸師、整体師に求められるもの

 

あなたは生きた治療家になりたいですか?それとも死んだ治療家になりたいですか?(自問自答)

 

人体は、当たり前ですが生命体であり物質ではないですよね、自然というものは非常に自由度の高いもののはずです。

 

なのに、パターン治療では、その治療体系のシステム・パターンからはずれたものは治療できない、またそれを疑問視する事もできない。

 

そんな治療をしていたのではないかと考えました。

 

いまのあなたは、どちらの治療家か?

と、自分に問いかける。

 

確かに、勉強会で習ったことを正確に再現できていると思う。

 

師匠にも技の正確さを褒められたことがある。

 

ですが、実践の場でそれが生きてくるかどうかはまた別なのだと思います。

 

優秀な成績で卒業した同級生が現場で優秀な成績を残しているかというと、意外にもそうでもない。

 

なんでだろうか。

 

患者は生きた対象であり、一人一人みな違います。

 

体質もそうだが、筋肉の質も付き方も、全然と言っていいほど違う。

 

なにより違うのは心、気分、正確。

 

こちらの言うことを素直に聞いてくれる患者もいれば、まったく聞いていない、右から左の人もいる。

 

とんでもなく違う解釈をする人もいる。

 

伝え方も重要なのだと思います。

 

システム化された技法は美しいが実践ではだめだ。

 

パターン化された技法は楽だが、だめなのだ。

 

そして、システム化、パターン化された自分に気づいていないのは、もっとダメなのだろうと思う。

 

今一度、自分の現在の施術を振り返ろうと考えています。

 

パターン化していないだろうか?

 

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古代に存在した「望診法」はダイレクトに気と経絡を見る技術だったのではないかと考えています。

3000年以上前の診察法の言葉に「望んで知る、これ神」という言葉があります。

この言葉は現代では、見ただけで診断ができるのは神様のようなものだ、という意味に解釈されています。

しかし、この言葉がつくられた(約3000年前)当時の「神」という漢字の意味は現代のような神様仏様のような意味ではなく、

神=自然(の気の流れ)という意味であったのです。

つまり、「望んで知る、これ神」の意味は、まず望診で気の流れを見ましょう、という意味であったのだと思います。

ですから、望診は診察手順の第1にくるのです。

四診合算という言葉があります。

望診、聞診、問診、切診の総合評価で証決定をしましょうという意味にとられています。

ですが、古代の望診のあり方を考えると、四診合算ではなくて、四診はその手順どおりに並んでいるだけです。

最初に望診で気の流れを把握しましょう、次に聞きましょう(聞診)、問いましょう(問診)、切(触診)してみましょう、と続いていくのす。

診察の手順としてまず望診ありきで、ここで患者の体のバランスが自然な状態(元の健康な状態)からどれくらい逸脱していて、どこに異常があり、どこが治療のポイントかを把握してしまいましょう、とうのが望診なのです。

ですから、望診というのは、神業だという意味ではなく、通常の診察手段として、最初に来るべきものなのだと考えております。

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潜象界とは、現象界の対義語(造語)ですが、現象界は人がその五感で感じ取れる実体の世界のことです。それに対して、現象界とまったく同時に同じ空間に存在しながらも、五感では感じ取ることのできない世界を潜象界と言います。

潜象界はいわゆる「気の世界」であるとも言われています。

その潜象界からの情報は現象界で起こっている事象に先駆けて動き、その潜象界の動きが具現化されて、現象界で実体としての動きに繋がっているとされています。ただ、いまのところすべてが仮説であり、それを数値化、もしくは映像化して確認する方法がありません。

唯一、確認する方法があるとしたら、それは人本来がもっている原初感覚を呼び覚ますこと。

この原初感覚は気を実感として感知することが可能で、その原初感覚をもってすれば、潜象界での気の動きを捉えることができるからです。

その原初感覚を使った望診法が当ブログでいう「古伝の望診」なのです。

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