望診講座63 「一具体便是錯」

目安時間5分

少しでも具体的になれば、それは間違いである、という意味の言葉です。

 

気を感知するための望診法の練習で役に立ったものの一つに「韓氏意拳」という中国拳法の話をしましたが、役立ち度ではベスト3で、重要度はとても高いものでした。

 

といっても拳法の型そのものが役に立ったのではなく、その流派のもつ術理(考え方)です。

 

その一つが上の言葉なのですが、定型化すれば能力が限定されてしまう、それはダメだと言っているのです。

 

じつは韓氏意拳では決まったパターンの、いわゆるコンビネーションなどのようなものはありません。ただ自分を表現しなさいと言います。

 

「動作を覚えても能力は養われない。ただ自分のもっているものを表現する、表すべきは自身の能力だ」

 

そして、

 

「その能力が高度になれば、自然と高度な表現ができる」と。

 

さらに言われたことは、

 

「経験ではない、気づきなさい」ということです。

 

あくまで自然に伸びやかに、動けと。

 

追記 上記記事にコメントをいただきました

「型にはめない、ということは、なんでもあり、ということにつながりませんか」

 

というご意見が多かったでしょうか。

 

いえいえ、型にはめない=なんでもあり、ではないです。

 

前回、例にだした韓氏意拳の場合ですが、

 

「一具体便是錯」

 

(少しでも具体的になれば、それは間違いである、という意味)

 

の前に「自然舒展」という言葉がありまして、これの意味は自然に伸びやかに、という意味なのですが、これがこの拳法の極意じゃないかとも思っています(自分では)。

 

自然に~とはよく使われる言葉ですが、人が本来自然に動き、その原初能力を発揮するということは、簡単なようでとても難しいことではないでしょうか。

 

気の感知能力も原初能力の一種とするならば、現代人のほとんどは自然な動き、人本来の原初能力を失っているわけですから。

 

型にはまらない、というのはその原初能力獲得のための一手段です。

 

つまり「型にはまらない」とは、「なんでもあり」ではなく、自然に合わせる、というのがルールであり、形あって形なし、の世界であるのが気の世界だと思っています。

 

自分の中には本来自然があり、その発動に自然のままに合わせるというのが気の感知能力獲得には必要なことであり、それはあらゆる芸事(例にとった韓氏意拳や武道や、諸芸)にも通じることだと思っています。

 

では自分にそれができているのか、といえば、まだ全然できておりません。生涯探究の道だと思っております。

 

また次のようなコメントもいただいております

「自身の気、=自然?なのでしょうか、とするなら、どうすれば自身の自然を発現できますか?気功とかやったほうがよいのでしょうか」

 

「こんばんは。気は水によく例えられてますね。気を感じようとするにはまず自身の気を溜める力を養わねばならないように感じます。内功ですね」

 

などなど。

 

そうですね、内気を養うというのは良い方法だと思います。

 

その方法は気功だけでもかなりの流派、種類がありますし、気功だけでなく静座法、座禅でも良いと思っていますし、そこは自分にあったものを選択されたらよいと思います。

 

でも特別なことをしなくても身体というものを認識する仕事や動作なら、それに打ち込むことで気を養うことできると思っています。

 

あと、やっていて楽しくないとダメですよね、続かなかければ意味が無いですから。

 

ではまた。

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当ブログの「望診」について

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勉強会風景
古代の望診法とは

古代に存在した「望診法」はダイレクトに気と経絡を見る技術だったのではないかと考えています。

3000年以上前の診察法の言葉に「望んで知る、これ神」という言葉があります。

この言葉は現代では、見ただけで診断ができるのは神様のようなものだ、という意味に解釈されています。

しかし、この言葉がつくられた(約3000年前)当時の「神」という漢字の意味は現代のような神様仏様のような意味ではなく、

神=自然(の気の流れ)という意味であったのです。

つまり、「望んで知る、これ神」の意味は、まず望診で気の流れを見ましょう、という意味であったのだと思います。

ですから、望診は診察手順の第1にくるのです。

四診合算という言葉があります。

望診、聞診、問診、切診の総合評価で証決定をしましょうという意味にとられています。

ですが、古代の望診のあり方を考えると、四診合算ではなくて、四診はその手順どおりに並んでいるだけです。

最初に望診で気の流れを把握しましょう、次に聞きましょう(聞診)、問いましょう(問診)、切(触診)してみましょう、と続いていくのす。

診察の手順としてまず望診ありきで、ここで患者の体のバランスが自然な状態(元の健康な状態)からどれくらい逸脱していて、どこに異常があり、どこが治療のポイントかを把握してしまいましょう、とうのが望診なのです。

ですから、望診というのは、神業だという意味ではなく、通常の診察手段として、最初に来るべきものなのだと考えております。

潜象界について

潜象界とは、現象界の対義語(造語)ですが、現象界は人がその五感で感じ取れる実体の世界のことです。それに対して、現象界とまったく同時に同じ空間に存在しながらも、五感では感じ取ることのできない世界を潜象界と言います。

潜象界はいわゆる「気の世界」であるとも言われています。

その潜象界からの情報は現象界で起こっている事象に先駆けて動き、その潜象界の動きが具現化されて、現象界で実体としての動きに繋がっているとされています。ただ、いまのところすべてが仮説であり、それを数値化、もしくは映像化して確認する方法がありません。

唯一、確認する方法があるとしたら、それは人本来がもっている原初感覚を呼び覚ますこと。

この原初感覚は気を実感として感知することが可能で、その原初感覚をもってすれば、潜象界での気の動きを捉えることができるからです。

その原初感覚を使った望診法が当ブログでいう「古伝の望診」なのです。

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