経絡やツボといわれるものは、人体機能の不調回復のための特異点であり、そのメカニズムはいまだに解明されてはいません。
また、経絡やツボは鍼灸師だけの専売特許ではないと考えます。
整復や整体を考える上でも避けては通れない概念ではないでしょうか。
これらを考えるにあたって既存の知識やイメージは一度消去していただきたい。
ただし、思考停止せよということではありません。
気や経絡の世界は解明されていないだけにイメージが先行しやすく、 思い込みが正しい理解を妨げる可能性が大きいからです。
対照的思惟による現象観察
経絡や気は、そのいずれも目に見えることもなく、触れることもできないために、それらの存在を実体としてとらえることは非常に難しいものです。
それらに関しては多くの解釈を生みましたが、現在でもその存在についてすら議論がなされているほどです。
そして、その存在を証明できない以上、経絡を「ある」とすることは非科学的であるという意見が圧倒的多数を占めています。
ですが、「ある」と「ない」は対等ではありません。存在の証明はたった1つの事例が「ある」ということを証明できれば良いわけです。しかし、ないことの証明はすべての事例にわたって「ない」ことを証明しなければなりません。
例えて言えば、その畑にミミズが生息することを証明するためにはたった1匹のミミズを捕まえればよいわけですが、いないことを証明するためにはその畑の全域にわたって掘り返した上で、ただの1匹もいないことを証明しなければなりません。
つまり現状のまま、ただ存在の有無を問うことは無意味であるということです。
さて、私自身にも気や経絡に関して、たとえ医療に関する事項に限ったとしても、その全容を到底整理することなどできませんし、経絡を知識として知ってはいても、実感をともなうものではありません。
しかし、経絡とはなにかということを考えますと、これだけ解剖しても最新の観測機器を用いても、なにもでてこないわけですから、まず実体を伴ったものではないのではないかと考えられます。
ですが、なにかが存在する。そしてそれは生きた人体のなかに存在する。ならば、それを一種の生命現象の表れだと仮定します。
経絡を一種の生命現象だと仮定するならば、生命は生命によってのみ認識されるわけですから、経絡を感知するのはあくまでも人、つまり観察者自身でなければならないと考えます。
しかし、現状(通常の五感)では「気」の存在を感知することはできないわけですから、その観察のためには自己の感受性と認識力に新しい受け止め方や、新しい反応のしかたを学習させつつ、自己の感覚を変化させていくことが必要であると考えました。
それは直感的な経験に頼らない、という自然科学を一方におきながら、同時にもう一方に直感的、記述的な科学、直接体験を基盤におく一元論的な自然感も必要であるということです。
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