(質問)
望診で気を感じる、とはある種の悟り、のようなものではないでしょうか。すると、その人の精神レベルにも高度な修行が必要だと思うのですが。
(回答)
あくまで私個人の意見なのですが、気の感知能力はあくまで原初感覚を利用した「技術」であって、精神的な悟りのレベルはあまり関係ありません。
「悟り」に限らず、どのような分野でも、ある境地に達した人たちって阿吽の呼吸といいますか、その会話も「そうだよね」の一言で終わってしまうようなことってありますよね。
気流診で例えれば、「そこに気滞があるから、これで(施術方法)いいんじゃない?」それに対する回答が「そうだね」の一言で終わる(笑)
でも、その共感できる感覚というのは、やはり言葉では表しにくいんですね。
そこは悟りの感覚と似ているかなと思います。
共感してもらうには、同じ境地に達してもらう、同じ経験をしてもらう、または同じ感覚を獲得してもらうしかないんです。
どんなに言葉を尽くしてもその感覚を正確に伝えることは、できないのですから。
そもそも望診なんてなくても世の中困らない!?
気の世界(潜象界)や経絡、古代望診術としての気流診を紹介してきましたが、気の世界を知らなかったからといって、別段困ることは無いんですよね。
と、思いませんか?
私自身、気の世界があるということを知る前、気を知らない事で困っていたかと言われると、別に困ることも無く、楽しく生活できていました。
また、東洋医学が無い国や地域の人々が、特別困っているかと言うと、そういうわけではなく、健康で快活な生活を送っているのではないでしょうか。
では、気や東洋医学の価値ってなんでしょう?
一言でいえば、気を活用できるようになったら、いままで出来なかったことが出来るようになること、です。
例えば携帯電話、発売前の市場調査では「そんなものいらない」「使い道がわからない」という意見が過半数を占めていたそうです。
例えば人気の漫画やドラマ、そんなもの無くても困りませんし、見ていなければ続きも気になりません。
でも見てしまった以上は、先を見ないと気が済まない。気になってしょうがない。
気の世界とは、そんな世界です。
そして、知られているようで、じつはまったくの未開の地です。
いま出回っている気に関する情報は、知ったかぶりや、空想のものが多すぎますね。
気の世界はそこに触れてみると、言葉では表現できない世界であることが実感できます。
一歩踏み込んでみれば分かります。
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