望診法講座27 「望診で感知できる気滞について」

目安時間4分

先日のメールで一部、誤解があるようですので、訂正です。

 

気滞は「ただそこに、なにかが、ある」と感知されるもので、熱感、色、

なんらかの感触(ふわっとした感じ、ビリビリした感じなど)をともなわない、と説明しました。

 

ではそういった実感をともなうものは、すべて偽反応なのか、

役に立たないのかというと、そうではありません。

 

私も初期のころ、先生に「こういう感じがするんですが」とお伺いをたてると、

先生いわく「それは気滞ではなく、経筋を感知しているんだ」とのこと。

 

そうなんです、純粋な「気」となってくるとほとんど実感、実在感をともなわず、

「ただなにかある」としか感知されませんが、血、筋、骨と現象界のものに近づくにしたがい、実感をともなうかたちで感知されてきます。

 

とくに整体関係の方(筋骨格系をよく勉強されたかたなど)は気滞より、経筋や骨格のズレを感知しやすいかもしれません。

 

それはそれで、臨床に役に立ちますから、その感覚も大事にしたほうが良いです。

 

ただし、それは気滞ではありませんので、経絡の異常の修正には直接は役立たないかもしれません。

 

古代に存在した望診法

有川先生の「古代の望診はおそらく、このようなものだったのだろう、そうでないと経絡発見の過程の説明がつかない」

というお言葉に、もう少し説明が欲しいとの意見がありました。

 

まず、有川先生の東洋医学の勉強量ははんぱじゃないです。

 

晩年、かなり整理された状態で、倉庫いっぱいの鍼灸、漢方関連の書籍の山、また実際に鍼灸師にも学んでいます。

 

外科医をされていましたが、鍼灸の勉強量は現役鍼灸師トップクラスの勉強、修練をされていました。

 

そのなかで、なぜ、経絡発見の過程を記した文献がないのか不思議に思われたそうです。

 

気の感知能力は、古代の人にもともと備わっていた能力で、

あたりまえのように使われていたので、とくに記す必要がなかったからでは、と考えたそうです。

 

その古代の人とはシャーマン、祈祷師などの人々です。

 

ですが、時代が進むにつれて、その能力は形骸化し、つじつまを合わせるために経絡学説が形成されていった、

しかし気の感知能力無にし、まったく見えない状態での学説展開であったために、仮説のうえに仮説をたてるような発展をせざるをえなかった。

 

だから経絡学説にはいろいろな矛盾が生じている、のだそうです。

 

有川先生いわく「まず気の感知能力を獲得してください。

 

それだけでよいです。

 

そうすれば私の言っている事が正しかったことが分かる。それをどう応用するかはみなさんの自由にすればよい」

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当ブログの「望診」について

東洋医学というと、陰陽五行論をはじめ、気とか自然とか、観念論ばかりが目立ちます。

当会での望診で気を診る技術は再現性を重視、既存の東洋医学の理論とは一線を画すものとなっております。

イメージを排除し、あくまで出来るか否か、気とは、経絡とはなにか、その正体を追求します。

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現代表 勝木れい子(石川県金沢市 鍼灸師)

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相談役 古川正明先生(福岡)

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勉強会風景
古代の望診法とは

古代に存在した「望診法」はダイレクトに気と経絡を見る技術だったのではないかと考えています。

3000年以上前の診察法の言葉に「望んで知る、これ神」という言葉があります。

この言葉は現代では、見ただけで診断ができるのは神様のようなものだ、という意味に解釈されています。

しかし、この言葉がつくられた(約3000年前)当時の「神」という漢字の意味は現代のような神様仏様のような意味ではなく、

神=自然(の気の流れ)という意味であったのです。

つまり、「望んで知る、これ神」の意味は、まず望診で気の流れを見ましょう、という意味であったのだと思います。

ですから、望診は診察手順の第1にくるのです。

四診合算という言葉があります。

望診、聞診、問診、切診の総合評価で証決定をしましょうという意味にとられています。

ですが、古代の望診のあり方を考えると、四診合算ではなくて、四診はその手順どおりに並んでいるだけです。

最初に望診で気の流れを把握しましょう、次に聞きましょう(聞診)、問いましょう(問診)、切(触診)してみましょう、と続いていくのす。

診察の手順としてまず望診ありきで、ここで患者の体のバランスが自然な状態(元の健康な状態)からどれくらい逸脱していて、どこに異常があり、どこが治療のポイントかを把握してしまいましょう、とうのが望診なのです。

ですから、望診というのは、神業だという意味ではなく、通常の診察手段として、最初に来るべきものなのだと考えております。

潜象界について

潜象界とは、現象界の対義語(造語)ですが、現象界は人がその五感で感じ取れる実体の世界のことです。それに対して、現象界とまったく同時に同じ空間に存在しながらも、五感では感じ取ることのできない世界を潜象界と言います。

潜象界はいわゆる「気の世界」であるとも言われています。

その潜象界からの情報は現象界で起こっている事象に先駆けて動き、その潜象界の動きが具現化されて、現象界で実体としての動きに繋がっているとされています。ただ、いまのところすべてが仮説であり、それを数値化、もしくは映像化して確認する方法がありません。

唯一、確認する方法があるとしたら、それは人本来がもっている原初感覚を呼び覚ますこと。

この原初感覚は気を実感として感知することが可能で、その原初感覚をもってすれば、潜象界での気の動きを捉えることができるからです。

その原初感覚を使った望診法が当ブログでいう「古伝の望診」なのです。

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