望診講座51 「ぎっくり腰を1回で治す方法」

目安時間4分

さて、このようなメールをいただきました。

 

「ぎっくり腰を一回の施術で完治する秘密の整体~」という、とある整体に興味を惹かれています~。

 

といった内容です。

 

まず、私はぎっくり腰を1回で治せる、というのは100%嘘だと思っております。ちなみに私はぎっくり腰を一回では治せません。

 

ぎっくり腰は俗称であって、急性腰痛という一種の怪我(=外傷)なんですが、外傷は1回では治せません。なぜなら軟部組織もしくは骨、軟骨の損傷をともなっているからです。

 

例えば、皮膚にできた切り傷と同じだと思っていただければ良いかと。

 

ぎっくり腰が1回で完治できるなら、皮膚の切り傷もその場で修復できるはずなんです。

 

自然治癒の範囲を超えた治癒は起こりえません。それはどの方でも同じだと思います。

 

重要なのでもう1回言いますが、自然治癒の過程を越える治癒は起こりえません。

 

ただ、ぎっくり腰に似た症状で筋緊張性腰痛というのがあります。これは1回で改善可能です。

 

なぜならそれは損傷をともなっていないからです。緊張が解ければ、痛みも取れます。

 

私も、痛みがひどくて這ってくるのがやっとの患者を1回で治した時など、得意になっていましたが、今から思えばなんのことはない、筋肉の緊張をとっただけの話です。

自然治癒の過程からいえば、治って当然。

 

もっとも。外傷をともなうぎっくり腰でも適切な施術ができれば、痛みはかなり軽減できますが。

 

人が治る過程には思っている程には差異はない!

 

このようなコメントもありました。

 

「○○整体(名称はあえて伏せます)のこの技法は別の○○技法と同様に使えるのではないか、とか、この技法とあの技法ではどちらが優れているのでしょう?」とか。

 

似たような技法になるのは当たり前なんです。なぜなら人の体とその治癒の過程から言えば、そんなに差異はないからです。

 

また、技法の優劣も同様にそんなにはありません。

 

 

使う人の技量というか、感覚というか、そちらの方がよほど大きな差異を生みます。

 

また技法数の多彩さを競うような、○○整体はその技法数5000技、とか。そういうのにもあまり意味はないかと思っています。

 

同じ関節に同じ技法を用いても、その状況によっては千変万化します。技法数などいくらでもあるんです。

 

でもやはり治効理論は同じ、人によって全く違う治癒過程をふむなどとは聞いたことがありません。

 

なにが言いたいかといいますと、技の数を増やすことはあまり効率的ではないということです。

 

次々に新しい技法(に見える)に飛びつくのも同じではないでしょうか。

 

一体系が整った技法(整体でも鍼灸でも)を修得されている方、あなたはすでに十分は技法を修得されているんです。

 

いままでに修得された技法を深めていけば、結局は同じところにたどり着きます。

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当ブログの「望診」について

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古代の望診法とは

古代に存在した「望診法」はダイレクトに気と経絡を見る技術だったのではないかと考えています。

3000年以上前の診察法の言葉に「望んで知る、これ神」という言葉があります。

この言葉は現代では、見ただけで診断ができるのは神様のようなものだ、という意味に解釈されています。

しかし、この言葉がつくられた(約3000年前)当時の「神」という漢字の意味は現代のような神様仏様のような意味ではなく、

神=自然(の気の流れ)という意味であったのです。

つまり、「望んで知る、これ神」の意味は、まず望診で気の流れを見ましょう、という意味であったのだと思います。

ですから、望診は診察手順の第1にくるのです。

四診合算という言葉があります。

望診、聞診、問診、切診の総合評価で証決定をしましょうという意味にとられています。

ですが、古代の望診のあり方を考えると、四診合算ではなくて、四診はその手順どおりに並んでいるだけです。

最初に望診で気の流れを把握しましょう、次に聞きましょう(聞診)、問いましょう(問診)、切(触診)してみましょう、と続いていくのす。

診察の手順としてまず望診ありきで、ここで患者の体のバランスが自然な状態(元の健康な状態)からどれくらい逸脱していて、どこに異常があり、どこが治療のポイントかを把握してしまいましょう、とうのが望診なのです。

ですから、望診というのは、神業だという意味ではなく、通常の診察手段として、最初に来るべきものなのだと考えております。

潜象界について

潜象界とは、現象界の対義語(造語)ですが、現象界は人がその五感で感じ取れる実体の世界のことです。それに対して、現象界とまったく同時に同じ空間に存在しながらも、五感では感じ取ることのできない世界を潜象界と言います。

潜象界はいわゆる「気の世界」であるとも言われています。

その潜象界からの情報は現象界で起こっている事象に先駆けて動き、その潜象界の動きが具現化されて、現象界で実体としての動きに繋がっているとされています。ただ、いまのところすべてが仮説であり、それを数値化、もしくは映像化して確認する方法がありません。

唯一、確認する方法があるとしたら、それは人本来がもっている原初感覚を呼び覚ますこと。

この原初感覚は気を実感として感知することが可能で、その原初感覚をもってすれば、潜象界での気の動きを捉えることができるからです。

その原初感覚を使った望診法が当ブログでいう「古伝の望診」なのです。

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