望診講座53 「不立文字の世界」

目安時間5分

次のようなコメントをいただいております。

 

「リラクゼーションのバイトを始め、ようやく1ヶ月…人の体を触るのもまだまだです。

私自身がムチウチ等、体はボロボロで無理が続くと歯痛と胸焼け、頭痛に苦しみます。

1ヶ月、無理な態勢をとったら仕事続けるのが辛くなると思い必死だったのですが、先日一瞬、胸焼けと歯痛に襲われました。今はもちこたえております。

何が言いたいのかと申しますと、自分の体の使い方、お客様の体に集中することにより気を感知出来るようになるのでしょうか?何も分からずごめんなさい。」

 

回答ですが、

とても興味深い質問です。またとっても良い質問だと思います。

 

有川先生は気の感知のための特別な訓練をしたわけではなく、患者を診るということに集中した結果、気を感知できるようになりました。

また有川先生はご自身の体の使い方についてはなにも語られていませんが、私は自身の体の使い方は重要だと思っております。

 

一言でいうと「脱力」です。

 

自身の体が不自然な状態(疲れるからだの使い方)では気の感知能力は落ちると思っております。

 

なので、その方向性であっていると思いますし、とてもよい事だと思います。そのまま頑張ってください。

 

ご自身の体の状態を感知する(重心の位置、骨、筋の使い方)ことはとても大切、かつ勉強になることですよ。

 

リラクゼーションからの解放

紹介させていただいたコメントを読ませていただいて、自分なりの考えをを回答させていただきたいと思います。

 

悟った人とそうでない人の違いって、じつはそんなにないんじゃないかと思ってるんですね。

 

ちょっと極端かもしれませんが、「迷い」が少ないのが悟った人、知識や情報に振り回されて迷いに迷う人が普通の人という感じでしょうか。

 

何と言っても、どちらも同じ現実世界に生きているわけですからね。

 

ただ、迷うか迷わないかと言うのは、単たる洞察力や判断力の違いというのではなく、「大きな目に見えない流れ」に沿っているかどうかを判断する能力があるかどうか。

 

この「流れ」に沿っているかどうかは瞬間的に判断できるものですから普通の人からは迷いが無い様に見える。

 

達人いわく、この「流れ」に逆らったらどんなテクニックを駆使しても勝てないよ、と。

 

その「流れ」がいわゆる気の世界のベクトルかと考えています。

 

で、その流れを掴む方法ですが、それは潜象界からも、じつは現象界からもアプローチできるんですね。

 

現実世界の技を極めていっても、気の世界にたどり着くのだと思います。

 

実際に有川先生がそうでしたから。

 

ただ、その能力、気の感知能力のことを有川先生は「印知」と造語で呼びました。

 

これは通常の感覚、感知とは違う、別な表現が必要だと言われました。

 

このメルマガの中でも気の「感知」と言っておりますが、じつは少々違和感があるのは確かです。

 

実際、なにかを感じているのとは少し違うのですから。

 

この違いは気の感覚を得た人にしか分からない微妙な表現だと思います。

 

その感じかたは、やはり共有というよりは共感なんですね。

 

なので不立文字の世界なのだと、思っております。

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当ブログの「望診」について

東洋医学というと、陰陽五行論をはじめ、気とか自然とか、観念論ばかりが目立ちます。

当会での望診で気を診る技術は再現性を重視、既存の東洋医学の理論とは一線を画すものとなっております。

イメージを排除し、あくまで出来るか否か、気とは、経絡とはなにか、その正体を追求します。

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現代表 勝木れい子(石川県金沢市 鍼灸師)

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相談役 古川正明先生(福岡)

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勉強会風景
古代の望診法とは

古代に存在した「望診法」はダイレクトに気と経絡を見る技術だったのではないかと考えています。

3000年以上前の診察法の言葉に「望んで知る、これ神」という言葉があります。

この言葉は現代では、見ただけで診断ができるのは神様のようなものだ、という意味に解釈されています。

しかし、この言葉がつくられた(約3000年前)当時の「神」という漢字の意味は現代のような神様仏様のような意味ではなく、

神=自然(の気の流れ)という意味であったのです。

つまり、「望んで知る、これ神」の意味は、まず望診で気の流れを見ましょう、という意味であったのだと思います。

ですから、望診は診察手順の第1にくるのです。

四診合算という言葉があります。

望診、聞診、問診、切診の総合評価で証決定をしましょうという意味にとられています。

ですが、古代の望診のあり方を考えると、四診合算ではなくて、四診はその手順どおりに並んでいるだけです。

最初に望診で気の流れを把握しましょう、次に聞きましょう(聞診)、問いましょう(問診)、切(触診)してみましょう、と続いていくのす。

診察の手順としてまず望診ありきで、ここで患者の体のバランスが自然な状態(元の健康な状態)からどれくらい逸脱していて、どこに異常があり、どこが治療のポイントかを把握してしまいましょう、とうのが望診なのです。

ですから、望診というのは、神業だという意味ではなく、通常の診察手段として、最初に来るべきものなのだと考えております。

潜象界について

潜象界とは、現象界の対義語(造語)ですが、現象界は人がその五感で感じ取れる実体の世界のことです。それに対して、現象界とまったく同時に同じ空間に存在しながらも、五感では感じ取ることのできない世界を潜象界と言います。

潜象界はいわゆる「気の世界」であるとも言われています。

その潜象界からの情報は現象界で起こっている事象に先駆けて動き、その潜象界の動きが具現化されて、現象界で実体としての動きに繋がっているとされています。ただ、いまのところすべてが仮説であり、それを数値化、もしくは映像化して確認する方法がありません。

唯一、確認する方法があるとしたら、それは人本来がもっている原初感覚を呼び覚ますこと。

この原初感覚は気を実感として感知することが可能で、その原初感覚をもってすれば、潜象界での気の動きを捉えることができるからです。

その原初感覚を使った望診法が当ブログでいう「古伝の望診」なのです。

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