気を感知する初歩訓練「気づき」
いきなりですが、何度も同じミスを繰り返しているな~と思ったことはありませんか。
もしあるなら、それは注意力、観察力の不足ですよね。
気を感知できるかどうかも、その注意力、観察力をどれだけ発動できるかによります。
気は微小な反応しかみせませんから、わずかな差異を感知できないと、感じ取ることがきでないんです。
また、感知できるようになっても、使いこなすにはその気の動きがみせる差異を判別しなければなりませんし、判別できたとしても、そこに「気づく」ことができないと同じ失敗を繰り返します。
じつは、これ、自分自身のために書いています。
わずかな差異があったにもかかわらず、ちゃんとそれを感知していたにもかかわらず、同じ失敗を繰り返したことがあります。
それは思い込みや、雑な判断(診断)をした結果の失敗です。
そのためには、常に全力で集中し、常に新たに向かい合う事が大切かと思います。
気を付けようと思います。
「棟梁」小川三夫著を読んで
この本は、雑誌「道(どう)」に掲載された宇城憲治師範(古伝空手)との対談で知りました。
小川さんは、宮大工の棟梁であり、何人もの職人の大工をたばね、数多くの建物を作ったばかりでなく、多くの弟子を育てた師匠でもあります。
仕事、学ぶこと、教えること、教わることの本質的なことを語っている良書です。
もつとも記憶に残る言葉は「言葉にできんことを覚えてもらうには、やってみさせるしかないな」
始原東洋医学のようではないですか。
なにしろ書いている(語っている)人が本物ですから。
何百年という時の洗礼を経て、なおも朽ちることなく残り続ける物を作る宮大工。
使い捨て、ひたすら新製品をという現在の世の中の流れとは全く異なる、一度建てたら後戻りのできない世界。
技、思い、人、伝承していく重み。
何百年もびくともしない宮づくりによって、技術だけでなく、想いを残す。
「人を育てる」には、「物事を教える」だけでは成り立たず、教わる者自身が「自ら学ぼう」と意識して努力しないと、幾ら周りの者が教えたとしても、その人は育ちません。つまり、それが「技術を盗む」と言われることなのでしょう。
耳に痛い言葉です。ただ、漫然と勉強会に参加していても身につかない。
自ら学ぶ場である、とう始原東洋医学の理念はまさしく小川さんのお言葉と一致します。
小川さんは、王道とも言うべき幾つもの名言を語っています。
本物の人の持つ言葉も重みです。
また、教えることの弊害が語られていることにとても共感できました。
教えないことによって人の能力を伸ばすことが大切であるとはどういうことでしょうか。
教えることが親切、丁寧に分かりやすく教えることが教育だと考えられていますが、教えすぎないことで、に主体的な気づきがあるのです。
教えられ、マニュアルを覚えこまされて育った人は不測の事態には対処できないとも言われます。
しかし、不測の事態とは実際の施術の現場では患者一人一人に臨機応変に対処するということであり、実際にはハプニングでもなんでもなく、極論すればただの日常です。
普段の診療になぜ対処しきれないか、私もじつはマニュアル人間だったのかと反省するばかりです。
「ほんとうを覚えるのには時間がかかる。時間はかかるが一旦身についたら、体が今度は嘘を嫌う。嘘を嫌う体を作ることや。それは刃物研ぎが一番よくわかる」
これも小川さんのお言葉です。
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