望診講座106 「望診と気付き」

目安時間5分

気を感知する初歩訓練「気づき」

いきなりですが、何度も同じミスを繰り返しているな~と思ったことはありませんか。

 

もしあるなら、それは注意力、観察力の不足ですよね。

 

気を感知できるかどうかも、その注意力、観察力をどれだけ発動できるかによります。

 

気は微小な反応しかみせませんから、わずかな差異を感知できないと、感じ取ることがきでないんです。

 

また、感知できるようになっても、使いこなすにはその気の動きがみせる差異を判別しなければなりませんし、判別できたとしても、そこに「気づく」ことができないと同じ失敗を繰り返します。

 

じつは、これ、自分自身のために書いています。

 

わずかな差異があったにもかかわらず、ちゃんとそれを感知していたにもかかわらず、同じ失敗を繰り返したことがあります。

 

それは思い込みや、雑な判断(診断)をした結果の失敗です。

 

そのためには、常に全力で集中し、常に新たに向かい合う事が大切かと思います。

 

気を付けようと思います。

「棟梁」小川三夫著を読んで

 


この本は、雑誌「道(どう)」に掲載された宇城憲治師範(古伝空手)との対談で知りました。

 

小川さんは、宮大工の棟梁であり、何人もの職人の大工をたばね、数多くの建物を作ったばかりでなく、多くの弟子を育てた師匠でもあります。

 

仕事、学ぶこと、教えること、教わることの本質的なことを語っている良書です。

 

もつとも記憶に残る言葉は「言葉にできんことを覚えてもらうには、やってみさせるしかないな」

 

始原東洋医学のようではないですか。

なにしろ書いている(語っている)人が本物ですから。

 

何百年という時の洗礼を経て、なおも朽ちることなく残り続ける物を作る宮大工。

使い捨て、ひたすら新製品をという現在の世の中の流れとは全く異なる、一度建てたら後戻りのできない世界。

 

技、思い、人、伝承していく重み。

 

何百年もびくともしない宮づくりによって、技術だけでなく、想いを残す。

 

「人を育てる」には、「物事を教える」だけでは成り立たず、教わる者自身が「自ら学ぼう」と意識して努力しないと、幾ら周りの者が教えたとしても、その人は育ちません。つまり、それが「技術を盗む」と言われることなのでしょう。

 

耳に痛い言葉です。ただ、漫然と勉強会に参加していても身につかない。

 

自ら学ぶ場である、とう始原東洋医学の理念はまさしく小川さんのお言葉と一致します。

 

小川さんは、王道とも言うべき幾つもの名言を語っています。

本物の人の持つ言葉も重みです。

 

また、教えることの弊害が語られていることにとても共感できました。

 

教えないことによって人の能力を伸ばすことが大切であるとはどういうことでしょうか。

教えることが親切、丁寧に分かりやすく教えることが教育だと考えられていますが、教えすぎないことで、に主体的な気づきがあるのです。

 

教えられ、マニュアルを覚えこまされて育った人は不測の事態には対処できないとも言われます。

しかし、不測の事態とは実際の施術の現場では患者一人一人に臨機応変に対処するということであり、実際にはハプニングでもなんでもなく、極論すればただの日常です。

 

普段の診療になぜ対処しきれないか、私もじつはマニュアル人間だったのかと反省するばかりです。

 

「ほんとうを覚えるのには時間がかかる。時間はかかるが一旦身についたら、体が今度は嘘を嫌う。嘘を嫌う体を作ることや。それは刃物研ぎが一番よくわかる」

 

これも小川さんのお言葉です。

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当ブログの「望診」について

東洋医学というと、陰陽五行論をはじめ、気とか自然とか、観念論ばかりが目立ちます。

当会での望診で気を診る技術は再現性を重視、既存の東洋医学の理論とは一線を画すものとなっております。

イメージを排除し、あくまで出来るか否か、気とは、経絡とはなにか、その正体を追求します。

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東洋医療技術研究会 代表者名

現代表 勝木れい子(石川県金沢市 鍼灸師)

技術主任講師 吉田宜正(石川県 柔道整復師)

講師 岡田 (大阪府 整体師)

講師 水根 (兵庫県 鍼灸師)

講師 西域 (奈良県 鍼灸師)

 

相談役 古川正明先生(福岡)

記事執筆・メルマガ担当 前沢

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勉強会風景
古代の望診法とは

古代に存在した「望診法」はダイレクトに気と経絡を見る技術だったのではないかと考えています。

3000年以上前の診察法の言葉に「望んで知る、これ神」という言葉があります。

この言葉は現代では、見ただけで診断ができるのは神様のようなものだ、という意味に解釈されています。

しかし、この言葉がつくられた(約3000年前)当時の「神」という漢字の意味は現代のような神様仏様のような意味ではなく、

神=自然(の気の流れ)という意味であったのです。

つまり、「望んで知る、これ神」の意味は、まず望診で気の流れを見ましょう、という意味であったのだと思います。

ですから、望診は診察手順の第1にくるのです。

四診合算という言葉があります。

望診、聞診、問診、切診の総合評価で証決定をしましょうという意味にとられています。

ですが、古代の望診のあり方を考えると、四診合算ではなくて、四診はその手順どおりに並んでいるだけです。

最初に望診で気の流れを把握しましょう、次に聞きましょう(聞診)、問いましょう(問診)、切(触診)してみましょう、と続いていくのす。

診察の手順としてまず望診ありきで、ここで患者の体のバランスが自然な状態(元の健康な状態)からどれくらい逸脱していて、どこに異常があり、どこが治療のポイントかを把握してしまいましょう、とうのが望診なのです。

ですから、望診というのは、神業だという意味ではなく、通常の診察手段として、最初に来るべきものなのだと考えております。

潜象界について

潜象界とは、現象界の対義語(造語)ですが、現象界は人がその五感で感じ取れる実体の世界のことです。それに対して、現象界とまったく同時に同じ空間に存在しながらも、五感では感じ取ることのできない世界を潜象界と言います。

潜象界はいわゆる「気の世界」であるとも言われています。

その潜象界からの情報は現象界で起こっている事象に先駆けて動き、その潜象界の動きが具現化されて、現象界で実体としての動きに繋がっているとされています。ただ、いまのところすべてが仮説であり、それを数値化、もしくは映像化して確認する方法がありません。

唯一、確認する方法があるとしたら、それは人本来がもっている原初感覚を呼び覚ますこと。

この原初感覚は気を実感として感知することが可能で、その原初感覚をもってすれば、潜象界での気の動きを捉えることができるからです。

その原初感覚を使った望診法が当ブログでいう「古伝の望診」なのです。

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