少しでも具体的になれば、それは間違いである、という意味の言葉です。
気を感知するための望診法の練習で役に立ったものの一つに「韓氏意拳」という中国拳法の話をしましたが、役立ち度ではベスト3で、重要度はとても高いものでした。
といっても拳法の型そのものが役に立ったのではなく、その流派のもつ術理(考え方)です。
その一つが上の言葉なのですが、定型化すれば能力が限定されてしまう、それはダメだと言っているのです。
じつは韓氏意拳では決まったパターンの、いわゆるコンビネーションなどのようなものはありません。ただ自分を表現しなさいと言います。
「動作を覚えても能力は養われない。ただ自分のもっているものを表現する、表すべきは自身の能力だ」
そして、
「その能力が高度になれば、自然と高度な表現ができる」と。
さらに言われたことは、
「経験ではない、気づきなさい」ということです。
あくまで自然に伸びやかに、動けと。
追記 上記記事にコメントをいただきました
「型にはめない、ということは、なんでもあり、ということにつながりませんか」
というご意見が多かったでしょうか。
いえいえ、型にはめない=なんでもあり、ではないです。
前回、例にだした韓氏意拳の場合ですが、
「一具体便是錯」
(少しでも具体的になれば、それは間違いである、という意味)
の前に「自然舒展」という言葉がありまして、これの意味は自然に伸びやかに、という意味なのですが、これがこの拳法の極意じゃないかとも思っています(自分では)。
自然に~とはよく使われる言葉ですが、人が本来自然に動き、その原初能力を発揮するということは、簡単なようでとても難しいことではないでしょうか。
気の感知能力も原初能力の一種とするならば、現代人のほとんどは自然な動き、人本来の原初能力を失っているわけですから。
型にはまらない、というのはその原初能力獲得のための一手段です。
つまり「型にはまらない」とは、「なんでもあり」ではなく、自然に合わせる、というのがルールであり、形あって形なし、の世界であるのが気の世界だと思っています。
自分の中には本来自然があり、その発動に自然のままに合わせるというのが気の感知能力獲得には必要なことであり、それはあらゆる芸事(例にとった韓氏意拳や武道や、諸芸)にも通じることだと思っています。
では自分にそれができているのか、といえば、まだ全然できておりません。生涯探究の道だと思っております。
また次のようなコメントもいただいております
「自身の気、=自然?なのでしょうか、とするなら、どうすれば自身の自然を発現できますか?気功とかやったほうがよいのでしょうか」
「こんばんは。気は水によく例えられてますね。気を感じようとするにはまず自身の気を溜める力を養わねばならないように感じます。内功ですね」
などなど。
そうですね、内気を養うというのは良い方法だと思います。
その方法は気功だけでもかなりの流派、種類がありますし、気功だけでなく静座法、座禅でも良いと思っていますし、そこは自分にあったものを選択されたらよいと思います。
でも特別なことをしなくても身体というものを認識する仕事や動作なら、それに打ち込むことで気を養うことできると思っています。
あと、やっていて楽しくないとダメですよね、続かなかければ意味が無いですから。
ではまた。
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