
そもそも「気」や「経絡」にはなんの興味も無い、というかたも多くおられます。
いや、そういう方のほうが多いのでしょう。
ですが、気の世界は潜象界といって、現象世界とは表裏一体の別世界です。
つまり「気の世界」はこの世の半分なんです。
現象界は目で見えている世界。気の世界は潜んで見えない世界。
両者は表裏一体の存在で、気の世界を知らないことは片手落ちになるのではないかと考えております。
実際に目に見える世界、数値で表せる世界つまり現象界における理屈、理論ではどうしても説明がつかない事象があります。
もちろん整体の世界にもです。
ですから、その気の世界が感知できると、世界観、治療を変えざるをえません。
とくに経絡治療をされている方は、生きた経絡がそのまま見えるわけですから、診断施術に大きな変化をもたらすのではないでしょうか。
整体治療をされているかたにとっても気の世界はその治療方法を根底からくつがえすほどの衝撃を与えるかもしれません。
気の感知技術、古伝の望診法とは、そういった技術なのです。
望診法を知らないということは治療家にとって、どれほどの損失をまねくことか。
あまり知られていないことですが、皮膚の色や状態などを見る現代式望診の他に、古伝の望診法が存在します。
四診の冒頭にくる古伝望診は、まず「気」の流れに異常があるかどうかを診ます。
それが本来あった望診法なのですね。
経絡の異常を把握する技術として「望聞問切」がありますが、望診は「望んでこれを知る、これ神」と言われています。
その意味を今まで私は、視診だけで経絡の異常を知ることができるのは神技だ、と解釈していました。
ですが、おそらく違うのではないでしょうか。
現代では「神」といえば、神様仏様ですが、この言葉がつくられた当時は「神」=自然(の気の流れ)そのものでした。
つまり現代とでは「神」という漢字のもつ意味が違うのです。
ですから「望んで知る、これ神」の意味は「まずは望診で気の流れを把握しましょう」という意味だと思うようになりました。
東洋医学の四診とはもともと気の異常を判断するための診察法です。
であるなら、最初に経絡や気の異常を把握する手順としての気を見る望診ありきなのです。
そして望診で気の流れを把握した後に次のステップとして、
(体の声を)聞いてみましょう、
(どんな施術が必要か)問うてみましょう、
(具体的な施術箇所の確認のため)切(触って)してみましょう、
と続くのではないでしょうか。
それが望聞問切ではないでしょうか。
四診は四つで一つの一連の流れであってどれが欠けても成り立ちません。
ただし、それは古代の四診であって現代の四診ではありません。
古代の四診、気や経絡の動きをダイレクトに実感をもって感知する技術としては現段階ではこの方法以外にないのではないかと思っています。
気とはなにか?経絡とはなにか?
その正体に迫るには、それらを実体として感知する能力が絶対的に必要です。
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