望診講座127 「丹光について」

目安時間4分

まずはご質問にお答えします。

1、医療関係者ではないのですが、メルマガ登録OKでしょうか?

⇒大歓迎です(笑)

 

2、次に望診と丹光との関係について

丹光については私も詳しくないのですが、瞑想中に瞼に浮かぶ光の事です。

 

さて、この光についてですが、単なる生理現象を脳内変換して光として見えているだけだという人もいたり、
禅的にいうと魔への入り口で危険だという人もいたり、さまざまです。

 

で、この光ですが、少し瞑想に慣れてくると比較的簡単に見えてきます。

※私も見えます。

 

その正体がなんなのかは私はコメントできるレベルにありませんが、
気の流れ、気を見ることとは違うように思います。

 

また、あまりにその光に集中しすぎるとイライラしたり、精神不安を起こしたりしますので、
たとえ見えていてもあまり気にせず、風景でも見るような感覚でやりすごすようにしています。

さて、気流診(古伝望診法)の練習についてです。

 

受講生の方は、現在、手の感覚を練習中だと思います。

この手の感覚をそのまま胸の内にもってきて、最終的に胸で感じ取るようにするのが目的ですから、
手の感覚をやしなうことは必須です。

 

もっとも敏感な手で感じ取れないのに、いきなり胸で捉えることはできませんから、
十分な練習を積んでください

 

で、次のようなご質問もいただきました。

胸ではなく額とか、腹(丹田)で感じてはいけないのか?

⇒ダメです。少なくとも私はうまくいきませんでした。

 

目で見てはいけないのなら、最初から目を閉じて望診してはいけないのか?

⇒これもダメです。

 

目を閉じると、当然対象物が見えないわけですから、対象物を想像しなくてはならなくります。

つまり余計な作業が加わるわけですから、さらに高レベル(遠隔望診、遠隔治療)な話となります。

まずは対象物を目で捉える望診から始めます。

 

本日は以上です。

またご質問はお気軽にメールしてください。

 

気を感じる、気をみるには?

気を感じるにはいろいろな練習方法がさまざまな流派から提案されています。

その中には、静かに自分の内的感覚を養う技法を中心に構成されているものも多いかと思います。

 

静的な気功や禅、瞑想などもその中に含まれています。

その反対に動的なものもあります。

 

私は武術もその一つだと考えています。

では、動的、静的なものには違いはあるのでしょうか。

 

目的地が同じなので、それを極めていくと到達する点は似たような位置になるのではないかと思っていますが、ただ気の世界(潜象界)は広大であり到達地点の状態は必ずしも同じ位置とは限らないと思っています。

 

たとえば、望診においても意念のおきかたによっては感知されるものが違ってくるからです。

そもそも、まず意念を投入しなければ望診ができません。

 

次に術者の学んできたこと、もっている技術によっても感知されるものが若干違ってくるのです。

経絡は見る人によってその姿を変えるのだと私は考えています。

 

それと同様に「気」をなにに応用するか、なにに応用できるかは、やはり個人の資質によるのではないでしょうか。

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当ブログの「望診」について

東洋医学というと、陰陽五行論をはじめ、気とか自然とか、観念論ばかりが目立ちます。

当会での望診で気を診る技術は再現性を重視、既存の東洋医学の理論とは一線を画すものとなっております。

イメージを排除し、あくまで出来るか否か、気とは、経絡とはなにか、その正体を追求します。

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東洋医療技術研究会 代表者名

現代表 勝木れい子(石川県金沢市 鍼灸師)

技術主任講師 吉田宜正(石川県 柔道整復師)

講師 岡田 (大阪府 整体師)

講師 水根 (兵庫県 鍼灸師)

講師 西域 (奈良県 鍼灸師)

 

相談役 古川正明先生(福岡)

記事執筆・メルマガ担当 前沢

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勉強会風景
古代の望診法とは

古代に存在した「望診法」はダイレクトに気と経絡を見る技術だったのではないかと考えています。

3000年以上前の診察法の言葉に「望んで知る、これ神」という言葉があります。

この言葉は現代では、見ただけで診断ができるのは神様のようなものだ、という意味に解釈されています。

しかし、この言葉がつくられた(約3000年前)当時の「神」という漢字の意味は現代のような神様仏様のような意味ではなく、

神=自然(の気の流れ)という意味であったのです。

つまり、「望んで知る、これ神」の意味は、まず望診で気の流れを見ましょう、という意味であったのだと思います。

ですから、望診は診察手順の第1にくるのです。

四診合算という言葉があります。

望診、聞診、問診、切診の総合評価で証決定をしましょうという意味にとられています。

ですが、古代の望診のあり方を考えると、四診合算ではなくて、四診はその手順どおりに並んでいるだけです。

最初に望診で気の流れを把握しましょう、次に聞きましょう(聞診)、問いましょう(問診)、切(触診)してみましょう、と続いていくのす。

診察の手順としてまず望診ありきで、ここで患者の体のバランスが自然な状態(元の健康な状態)からどれくらい逸脱していて、どこに異常があり、どこが治療のポイントかを把握してしまいましょう、とうのが望診なのです。

ですから、望診というのは、神業だという意味ではなく、通常の診察手段として、最初に来るべきものなのだと考えております。

潜象界について

潜象界とは、現象界の対義語(造語)ですが、現象界は人がその五感で感じ取れる実体の世界のことです。それに対して、現象界とまったく同時に同じ空間に存在しながらも、五感では感じ取ることのできない世界を潜象界と言います。

潜象界はいわゆる「気の世界」であるとも言われています。

その潜象界からの情報は現象界で起こっている事象に先駆けて動き、その潜象界の動きが具現化されて、現象界で実体としての動きに繋がっているとされています。ただ、いまのところすべてが仮説であり、それを数値化、もしくは映像化して確認する方法がありません。

唯一、確認する方法があるとしたら、それは人本来がもっている原初感覚を呼び覚ますこと。

この原初感覚は気を実感として感知することが可能で、その原初感覚をもってすれば、潜象界での気の動きを捉えることができるからです。

その原初感覚を使った望診法が当ブログでいう「古伝の望診」なのです。

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