望診講座54 「甲野善紀先生からの手紙」

目安時間4分

昔、こんな体験をしました。

 

手の指が凍傷になりかけたんですね(いまから思うと、そうだったんだと考えられます)。

 

で、温めるためにお湯につけたんですが、熱くてつけられない。

 

そこで、どんどんぬるくしていったんですが、それでも熱くてつけられない。

 

最終的には冷水につけました。それを温かいと感じたんです。真冬に冷水をあったかい~、と感じたんですよ。

 

なにが言いたいかというと、いままで絶対間違いないと思っていた感覚も場合によっては180度変わってしまう事もあるといういことです。

 

では常にいまの感覚を疑えということか、とそういうわけではありません。

 

ただ、いま感じている事(常識も含めて)も、立場や見方を変えると全く違うものにも変わってしまうということを頭のすみには置いておかないといけないと思うのです。

 

毒が薬になるように、そのまた逆もあり、です。

 

そう考えると、嫌いな物、苦手なものも無くなってくると思いませんか?

 

それはさておき、施術においても絶対的な施術方法はやはり無いんです。その人には良くても、他の人には毒になる場合もあり、その逆のあり、です。

 

甲野善紀先生からのお手紙

お悩みなどのメールもいただいて、それに適切な回答でもできればよいのですがなかなか良いアドバイスも見つからず、で、次のようなお話を。

 

武術家で甲野善紀という方がおられます。技の向上に研究熱心なかたで、新しい技を思いつくと、真夜中でも飛び起きて道場へでて試してみる、といった感じの先生です。

 

その方がある曲を聞いたときに体がバラバラになるような衝撃を受け、技が進展したと言われたんですね。

 

で、その曲を私も聞いてみたんですが、私にはただの歌謡曲にすぎず、なにも起こりませんでした。

 

つまり、ある悩みがあってもその人への適切な答えは、その人によって違うということです。

 

ある人にとっては衝撃的な一言でもほかの人にはただの戯言にしか聞こえない場合もある。

 

なので、究極的には答えは自身で見つけるしかないということです。

 

でも答えは必ず見つかります。なぜなら、その人に答えが見つけられないなら、そもそも問題提起が起きないからです。

 

そういう意識を持てるということは、回答があるからなんですね。

 

なので、私にはこれしか言えません。

 

前進しましょう!じっとしていてもなにも起こりませんから。

 

その甲野先生から直接いただいた手紙に次のようなことが書かれていました。

 

「自らの内面的状況、傲った気持ちになったり、卑屈になったりする心と身体の動きの関連の研究に意を注ぎ、自らがより透明になって今の時代を生きてゆくことを私自身はなによりも追求してゆきたいと思っています」

 

道を追求されている孤高の武術家です。

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当ブログの「望診」について

東洋医学というと、陰陽五行論をはじめ、気とか自然とか、観念論ばかりが目立ちます。

当会での望診で気を診る技術は再現性を重視、既存の東洋医学の理論とは一線を画すものとなっております。

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古代の望診法とは

古代に存在した「望診法」はダイレクトに気と経絡を見る技術だったのではないかと考えています。

3000年以上前の診察法の言葉に「望んで知る、これ神」という言葉があります。

この言葉は現代では、見ただけで診断ができるのは神様のようなものだ、という意味に解釈されています。

しかし、この言葉がつくられた(約3000年前)当時の「神」という漢字の意味は現代のような神様仏様のような意味ではなく、

神=自然(の気の流れ)という意味であったのです。

つまり、「望んで知る、これ神」の意味は、まず望診で気の流れを見ましょう、という意味であったのだと思います。

ですから、望診は診察手順の第1にくるのです。

四診合算という言葉があります。

望診、聞診、問診、切診の総合評価で証決定をしましょうという意味にとられています。

ですが、古代の望診のあり方を考えると、四診合算ではなくて、四診はその手順どおりに並んでいるだけです。

最初に望診で気の流れを把握しましょう、次に聞きましょう(聞診)、問いましょう(問診)、切(触診)してみましょう、と続いていくのす。

診察の手順としてまず望診ありきで、ここで患者の体のバランスが自然な状態(元の健康な状態)からどれくらい逸脱していて、どこに異常があり、どこが治療のポイントかを把握してしまいましょう、とうのが望診なのです。

ですから、望診というのは、神業だという意味ではなく、通常の診察手段として、最初に来るべきものなのだと考えております。

潜象界について

潜象界とは、現象界の対義語(造語)ですが、現象界は人がその五感で感じ取れる実体の世界のことです。それに対して、現象界とまったく同時に同じ空間に存在しながらも、五感では感じ取ることのできない世界を潜象界と言います。

潜象界はいわゆる「気の世界」であるとも言われています。

その潜象界からの情報は現象界で起こっている事象に先駆けて動き、その潜象界の動きが具現化されて、現象界で実体としての動きに繋がっているとされています。ただ、いまのところすべてが仮説であり、それを数値化、もしくは映像化して確認する方法がありません。

唯一、確認する方法があるとしたら、それは人本来がもっている原初感覚を呼び覚ますこと。

この原初感覚は気を実感として感知することが可能で、その原初感覚をもってすれば、潜象界での気の動きを捉えることができるからです。

その原初感覚を使った望診法が当ブログでいう「古伝の望診」なのです。

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