前回の記事ではおそらく人が本来もっている「原初感覚」によって気滞(と命名された異常個所)を感知して治療に応用していたのではないか、それを体系化したのが経穴、経絡ではないかと述べました。
さらに文字、紙の発展によってそのデータが記述され残されるようになると、原初感覚の低下とともに、そのデータをもとにした医術が編集されていったのだと思います。それが古典医学書です。
「古典」はこのような経緯で書かれたものなので、経穴経絡の発見過程に関する記述が無いのです(と私は思っています)。
その中には空理空論も含まれており、それらを統合するためにさらに空論を組み立てていったものもあると考えられます。
ですから、古典は真実と虚構が混在しているのです。
「書は言を尽くせず、 言は意を尽くせず(易經)」と言われますが、どうしても文字には書けない、文章では伝達できない部分があるものです。
それが経絡、経穴の発見過程であったのだとろうと考えられます。
ただ、その原初感覚は失われてしまったわけではありません。
当ブログでもご紹介させていただいていますが、有川先生はもちろん、沢田健先生や仙台の盲目の鍼灸師、またタオ指圧の遠藤先生などはその原初感覚による施術をされていると考えられます。
原初感覚は本来ならヒトすべてが持っている感覚ですから、なんの練習も無くても使える人もいるでしょうし、現時点でできなくても練習しだいで発現できるはずなのです。
有川先生はこの原初感覚を「印知」能力と呼んで、一般の感覚と特別されていました。
その印知感覚を再獲得すれば、古典の内容も、 まったく違う観点から、検討・追試がなされ、再評価されることと思います。
そうなったとき初めて東洋医学は、西洋医学(現象界)に対する潜象界医学として再評価されるのではないかと考えています。
東西両医学の「融合、補完」が、 最近の流行りのように言われています。東洋医学は伝統医学、経験医学、人にやさしい医学だと聞こえの良いスローガンのようのいわれていますし、経絡経穴もお題目のように唱えられていますが、その正体を掴んでいる人は誰もいないのが現状なのです。
西洋医学と東洋医学の融合と補完を目指すのであれば、両者は本当の意味で融合すべきでしょうし、互いに足りないところを補完すべきでしょう。
東洋医学を科学的に再検討して、西洋医学の一部と化すのは融合でも補完でもないのではないでしょうか。
筋肉に鍼を刺す、解剖的位置から鍼を刺す、これは東洋医学ではなく、西洋医学の物理療法です。
「東洋医学」と、ただ唱えているだけでは、意味がないと思います。
追記 原初感覚を取り戻す練習
電気回路の練習ですが、プラス、マイナスで感覚が違うという先生もおられるのですが、私には違いはあまりわかりません。
同じだという先生のほうが多いように思いますので、そのあたりは、あまり気にせず、練習していただければと思います。
外観的なやり方というのは、完全に視覚に頼ったやり方です。
有川先生がどのように気の感覚を習得されたのか、その過程は誰にもわかっていませんでした。
それは、有川先生自身が、気の感覚トレーニングを特別つんでいないからです。つまり本人にも説明しようがなかったのです。
だから、ただ黙って見学しなさい、ということになっていたのでしょう。
ただ、私が思うに、有川先生はレ線写真をさらに3D映像のように書き写し、またなにかを読み取るように写真を見ていた、という修行をされています(外科医時代)。
そのように、普通の人がみれば白黒の意味不明な写真にしかみえないレ線画像を、細かく、それこそ一般人には全く分からないくらいの微小な差異を感じ取るまで「見る」という修行をされました。
それが気の感覚習得に繋がったのだと考えています。
この微小な差異を感じ取る、という作業は望診のみならず、スポーツや武道、おそらく芸術、どの分野においても芸事の上達には欠かせないものだと思います。
具体的なやり方ですが、
ある方が、手軽な方法を提示されています。
朝起きたときに自分の部屋をチェックして、昨日と何が違うかを見る、ただそれだけです。
最初は物を動かしたとか、誰でもわかるような大きな差異しか分かりませんが、次第にペン1本、紙1枚、くずかごの中など、ぱっと見渡しただけでも数十、数百の差異を感じるようになります(空気とか、湿度とか、雰囲気なんかも)。
それはいつも見ている「なにか」でもかまいません。それこそ患者さんでもかまいません。
見えない「なにか」の差異まで感じるとるように、観察する、という訓練です。
気の感覚訓練は磁石や電気回路だけではありません。
工夫して、やってみてください。
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