先日のメールで一部、誤解があるようですので、訂正です。
気滞は「ただそこに、なにかが、ある」と感知されるもので、熱感、色、
なんらかの感触(ふわっとした感じ、ビリビリした感じなど)をともなわない、と説明しました。
ではそういった実感をともなうものは、すべて偽反応なのか、
役に立たないのかというと、そうではありません。
私も初期のころ、先生に「こういう感じがするんですが」とお伺いをたてると、
先生いわく「それは気滞ではなく、経筋を感知しているんだ」とのこと。
そうなんです、純粋な「気」となってくるとほとんど実感、実在感をともなわず、
「ただなにかある」としか感知されませんが、血、筋、骨と現象界のものに近づくにしたがい、実感をともなうかたちで感知されてきます。
とくに整体関係の方(筋骨格系をよく勉強されたかたなど)は気滞より、経筋や骨格のズレを感知しやすいかもしれません。
それはそれで、臨床に役に立ちますから、その感覚も大事にしたほうが良いです。
ただし、それは気滞ではありませんので、経絡の異常の修正には直接は役立たないかもしれません。
古代に存在した望診法
有川先生の「古代の望診はおそらく、このようなものだったのだろう、そうでないと経絡発見の過程の説明がつかない」
というお言葉に、もう少し説明が欲しいとの意見がありました。
まず、有川先生の東洋医学の勉強量ははんぱじゃないです。
晩年、かなり整理された状態で、倉庫いっぱいの鍼灸、漢方関連の書籍の山、また実際に鍼灸師にも学んでいます。
外科医をされていましたが、鍼灸の勉強量は現役鍼灸師トップクラスの勉強、修練をされていました。
そのなかで、なぜ、経絡発見の過程を記した文献がないのか不思議に思われたそうです。
気の感知能力は、古代の人にもともと備わっていた能力で、
あたりまえのように使われていたので、とくに記す必要がなかったからでは、と考えたそうです。
その古代の人とはシャーマン、祈祷師などの人々です。
ですが、時代が進むにつれて、その能力は形骸化し、つじつまを合わせるために経絡学説が形成されていった、
しかし気の感知能力無にし、まったく見えない状態での学説展開であったために、仮説のうえに仮説をたてるような発展をせざるをえなかった。
だから経絡学説にはいろいろな矛盾が生じている、のだそうです。
有川先生いわく「まず気の感知能力を獲得してください。
それだけでよいです。
そうすれば私の言っている事が正しかったことが分かる。それをどう応用するかはみなさんの自由にすればよい」
コメントフォーム